天平19年(747年)中将姫は、藤原豊成(藤原鎌足の曽孫)の子として生まれたが、5歳の時、生母と死別した。 継母の照夜の前(てるよのまえ)は姫を憎み、亡き者にしようと悪計をたくらんだ。 天平宝字4年(760年)、照夜の前は、家臣の松井嘉藤太を金銀で誘い、姫を宇陀郡の日張山で殺すように命じた…
文禄3年(1594年)柳生家中興の祖、宗厳(むねよし)は自ら編み出した新陰流の極意を家康に披露した。 家康は新陰流を徳川家の兵法と決めたが、この時、宗厳は66歳の高齢であったため、嫡子宗矩(むねのり)が仕官することになった。 宗矩は、関ヶ原の戦いをはじめ、大阪夏の陣、冬の陣で活躍。一万二千…
永正年間のこと、大野の郷士、杉山平左衛門(すぎやまへいざえもん)の家に、小浪(こなみ)という侍女が仕えていた。 小浪は気だてがやさしく、いつも、大野のお地蔵さんにお参りしていた。 ところが、ある時、杉山平左衛門の家が火事で丸焼けとなり、小浪に嫌疑(けんぎ)がかかり、遂に火あぶりの刑に処せら…
一人の男の子が生まれ、吉祥丸と名づけられた。 吉祥丸は、2歳の時、桑摘みにゆく母に連れられ、小乃保谷の山中に行った。 すると、突然、一羽の大鷲が舞い降り、吉祥丸を爪でつかみ、飛び去った。 当時、義淵(ぎえん)という名僧が奈良にいた。 彼が二月堂に参詣すると、杉の大木に、幼児を捕えた大鷲が…
弱肉強食の戦国時代、大和国筒井城主・筒井順昭は、28歳の若さで不治の病にかかってしまった。 嫡子(ちゃくし)の藤勝はまだ3歳の幼児。 順昭は思案の末、しばしば看病や琴をひいて慰めるために、城に出入りしている盲目の法師を思い出した。 『あの黙阿弥と申す法師は、確かに自分とうり二つ。 黙阿弥を…
寛文(かんぶん)年間(約3百年ほど前)、宝生寺の南門といわれてきた佛隆寺(宇陀郡榛原町赤埴(あかばね))に、側面に麒麟(中国の想像上の目出度い動物)を彫刻した石の茶臼があった。 重さ25キロほどのこの茶臼は、その昔、弘法大師が唐より帰朝の折に、唐の徳宗(とくそう)皇帝から拝受された寺の宝物で…